『どうせ生きてんやったら、楽しく生きた方がいい』~被災、留年、就職を立て続けに経験した方に取材して、学べたこと~(山﨑天智)

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私は、去年の夏に前十字靭帯を損傷し、好きなサッカーが半年間出来なかった経験があります。また、現在就活中で、人生の岐路に立たされているといった漠然としたプレッシャーを感じています。これらの経験に被災が重なったら、自分だったら耐えられないと思いました。そこで、実際に被災当時に、負傷中または就活中だった方を取材させていただこうと考えました。
取材に応じてくださる方を探していたところ、東播磨県民局副局長の木南さんが快諾してくださりました。木南さんは、大学4年生の時に被災し、被災後すぐに留年や就職活動を経験されています。人生の一大イベントと被災が近い状況にあるので、その精神的負担をどう耐えたのかを知りたく、取材しました。

被災当時、家族を支えながら、ボランティアやバイトもしていた

木南さんは、被災当時、神戸大学法学部4年生で山岳部に所属していたそうです。当時のお話を伺うと、こう話してくださいました。
「地震があったのは1月で、もうちょっとしたら卒業という時期でした。就職に関しては、実は私、大学院に行こうと思ってて。モラトリアムをもう少し過ごしたいって言う気持ちと、今後何をやっていくのか自分で掴めるものがなかったので、大学院に行く予定でした。だから、就職活動らしいことは何もしていなかったんです。震災当時、灘区の王子公園と阪急六甲の間の、ちょっと山の上の方に祖父母、両親、妹と一緒に住んでまして。被害がひどかったのは南の方で、自分の家は外壁が倒れるとか瓦がずれるとかで、修理にお金はかかってましたけど、それほど大きな被害ではなかったんです。でも、家の中はぐちゃぐちゃになり、ガスや水道が止まってしまい、食料も必要なので、物資を自宅まで運び込まなければなりませんでした。父が前年に大手術をしたので、力仕事をできるのは私しかいませんでした。また、東灘区にいた叔母と連絡が取れなくなったことから、叔母の家を見に行くと、2階が1階部分まで崩れ落ちている状態でした。叔母は何とか無事でしたが、どうしたらいいんやと泣き崩れていました。そこで、叔母を自身の家に連れて帰ることにし、叔母の家から必要なものを回収しました。その後、水道が回復しだした頃からはボランティアが入ってきました。そこで私も大学のボランティアグループに入り、避難所に物資を配ったり、患者さんのお家に薬を届けたりしていました。また、並行して灘郵便局の手伝いも始めました」
木南さんのここまでのエピソードを聞いて、私が驚いたのは、圧倒的な行動力です。家族の力仕事を一人で担うだけでなく、ボランティアで、他の被災者に対しても支援を行っていました。この行動力の要因は、取材を通して2つあると感じました。
1つ目は、ポジティブであることです。取材の中でも、「どうせ生きてるんやったら楽しく生きた方がいいよねっていうのがあるから、あまり悩まない」とおっしゃっていました。
そして2つ目は、つながりです。つながりというのも、いろんな種類があると思います。木南さんの場合、地域や友達、家族とのつながりがあります。木南さんは、家族や友達も無事で、大きな怪我をした人や亡くなった人はいなかったとのこと。中でも山岳部の友達とは、当日、被災地をいっしょにバイクで見て回ったそうです。
「六甲道まで行ったら駅がドーンと下に落ちとって、友達とうわーって驚いて。路上に運び出されて毛布を掛けられている人もいました。その後、夕方くらいから被害の状況がテレビで報道され出して、あれはやっぱり亡くなってる人だったんだな、というのが後から分かったんです」
話を聞くだけでも壮絶な状況です。しかし木南さんは「自分一人だと自暴自棄になる。でも周りは全員被災者。被災により、気持ちが高まって、地域のつながりが強くなった」とおっしゃっていました。このように友達や地域とのつながりがあれば、自分ひとりじゃないと感じて、前向きになれるのかもしれないと思いました。

被災後立て続けに直面した留年や就職活動という壁も、前向きに乗り越えた

木南さんは、被災しておよそ2か月後の3月末に、衝撃の事実に気が付きます。大学を卒業するための単位が足りなかったのです。総単位数は足りていたのですが、コース別に取得基準があったらしく、それに足りていないとのことでした。取材していて驚いたのは、このような衝撃の事実を飄々と話されていた様子でした。私だったら、大きなショックを受け、被災やそれによる生活負担を言い訳にしていたと思います。環境を言い訳にせず、淡々と受け入れる木南さんの考えを、尊敬しました。
留年が決まり、大学院進学を断念し、急遽、就職活動をすることになった木南さん。しかし、就活についても悩むことなく、兵庫県庁に就職されたそうです。就職先を選んだ決め手は、いろんなことができるからとのこと。とはいえ、就職後、商社や長野県庁の方がよかったのではないかと考えたことがあると話していました。理由は、商社についてはよりいろいろなことができること、長野県庁については山登りがしやすいこと。特に1、2年目は配属先での業務内容に意義を感じられず、人生で一番悩んだそうです。
私が就活に不安を感じる要因は、ファーストキャリアの重要性と正解がないことです。もし、就職先選びに失敗してしまったら、転職が流行しているとはいえ、完全には取り返せない。そのような漠然とした不安をずっと抱えていました。しかし、木南さんにお話を伺って、仕事以外の人生の軸をもつことの重要性を感じました。木南さんは「自分には山登りっていう軸があるとは思います。自分の人生において。それがつらい時の逃げ場にもなるし。なんか一本足より二本足で立ってるっていう強さがありました。人生で一番悩んだ就職1、2年目は、一番山登りをした時期でもあります」とおっしゃっていました。また、3年目以降は、配属や業務内容が変わり、やりがいを感じるようになって「県庁に入ってよかったと感じた」とおっしゃっていました。それは山登りを心の支えにしながら就職1、2年目を乗り越えたからこそ得られたことだと思います。正解がわからない就活やキャリアにおいて、仕事以外にも人生の軸をもつことの重要性を感じました。

辛いことがあっても人生を楽しむための、考え方と軸

取材するにあたって、被災によってどのような負担が生じ、それが就職などにどのように悪影響を及ぼし、どう乗り越えたのかを知ろうとしていました。しかし、木南さんは、「被災した話を面接でできた」「そんなに大変じゃなかった」「悩まなかった」と終始落ち込むことなく、前向きにとらえていたのが印象的でした。そんなエピソードの数々を聞いて、私の被災に対する先入観が覆されました。
木南さんは、被災、留年、就職という大きな出来事を立て続けに経験しました。また、就職1、2年目にやりがいのなさという大きな悩みをかかえました。その経験を聞き、私が同じ立場なら、凹んで立ち直れないと思うのですが、なぜ落ち込まずにいられるのですか、と木南さんに聞いてみました。すると木南さんは、「なんか思考一つやな。そういうふうに山﨑さんみたいに考えるか、私みたいに考えるかっていうのは、ほんま紙一重やと思う。やっぱり、どうせ生きてんやったら、楽しく生きた方がいい」と話されました。

被災してショックを受けたり、就活で不安を感じることは、やはり避けられないことだと思います。しかし取材をして、周りとのつながりや、自分の軸を意識することで、そうした精神的負担はやわらぎ、前向きに生きられるのではないかと感じました。私が前十字靭帯を損傷して、なかなか立ち直れなかったことと、就活に不安を感じることは、共通した要因があると考えます。まず、「自分だけでふさぎ込んでしまったこと」。そして、「軸を見失ったこと」です。負傷では軸の「サッカー」ができなくなったこと、就活では選択肢の多さが原因で、やりたいことの軸を見失いました。
もし私が被災しても、周りとのつながりを意識して、辛い時もよりどころになる「自分の人生の軸」を見失わないことで、木南さんのように前向きに生きようと思います。