女性の避難生活が少しでも楽に、楽しくあればと願う1人の女子大生の記録。(村上莉乃)

pickup

朝目が覚めたら8時45分だった。
5分おきに大量にセットしたアラームを全て切り、時間に余裕を持ってスタンバイしたのに、取材開始5分前になっても朝イチの鼻詰まりはちっともよくならず、 寝起きと勘違いされませんように、と願いながらP&Gの三木さんに電話をかけた。


「もしもし、リメンバー117の村上と申します。」

まず初めに取材を申し込んだ理由を話した。
その間、この7ヶ月間を振り返りながら 私の始まりはこんな些細な疑問やったなぁ、もうすぐこの活動も終わるんやなぁ、とか考えていた。

「村上さんの取材の趣旨には沿わないかもしれませんが...」
と三木さんは、大学生のときに京都で阪神・淡路大震災を経験したことをはじめ、 時系列に沿って いろいろなことを教えてくださった。

私は このプロジェクトに参加して初めての記事で 「女性が少しでも被災地での生活を楽に、楽しく」云々話していたわけだけれど、現実にはそんなこと到底うまくいくはずがないこと、だけど、三木さんたちはそれをやりきったことをこのあと知ることになる。

情報が欲しかった。

1995年の阪神・淡路大震災。京都でも震度4が観測された。
三木さんが勤務していたのは液状化現象が起きた六甲アイランド。
でも、当時の三木さんは震災を自分事のようには捉えられなかったと言う。
そして、2011年3月11日、東日本大震災を迎えることになる。

三木さんが勤めるP&Gは過去の教訓を活かし、いち早く東京の会社とビデオ会議を行ったり、対策本部を開設するなどして被災地支援に乗り出した。14日には兵庫県から宮城県に、大阪府から岩手県に向けて、紙おむつや生理用品といった物的支援を含めた第一便が出発した。

でも、三木さんはこんなことも話してくださった。「何が必要なのか、情報が欲しかった。だけど東日本大震災ではそれがうまくいかなかったんです」。

現地の対策本部にヒアリングを行い、赤ちゃんのいるお母さんたちが今何を求めているのか、どんなことで困っているのか情報収集を謀ったそうだが、「そういった人はいないかもしれない」という答えが返ってくることもあり、被災地の母親や女性たちの優先順位の低さを感じたという。

「だからそもそも女性からの声が上がらないんです。言えないんです」
「なのでそういった対策の取りようがないんです」

しばらく唸っていた。
そもそも女性たちが意見を出せないという状況が私の中で想定外だった。

「物質的じゃない」支援 − 南三陸

南三陸町では町長の方針で、支援に対してオープンだったそうだ。私も当時メディアにたくさん取り上げられる南三陸町を見てすぐに町の名前を覚えたし、沢山ある被災地の中でも特に印象的だったように思う。

三木さんたちも南三陸町で「物質的じゃない」支援を行ったそうだ。

<うんと眠ろゾーン>
キャンピングカーを改造してお母さんたちが過ごしやすい環境を作る。
<うんと遊ぼゾーン>
外で子どもたちが遊べる遊具を設置する。
<うんと集まろゾーン>
お母さんたちが集い、お話したり情報提供をしあう場の提供をする。交換ノートも置かれたりしたそう。

被災地での不自由な避難所生活を送る上での精神的苦痛といったことは、避難所生活どころか被災したことすらない私には全くの未知数で、物での支援だけではなく、そういったところからのアプローチは実際にヒアリングを行って生の声を聞いたり、災害を経験した当事者たちだからこそできるサポートなんだと思うと、「はー、なるほど」としか言えなかった。
けれど、「理解してくれる人がいることの安心感」は被災地でも日常生活でも絶対的なもので。
そういった支援を受けることができた女性たちはどれほど安心できたことだろうと思う。

「物質的な支援だけじゃなくって、そうじゃない、人と人を繋げる支援もとても大切なんです」
被災地支援の最前線で動いたひとりの女性、そして母親の言葉は私に重く響くとともに取材前は想像もし得なかった被災地の女性の現実を垣間見ることができた。

これは、女性の避難生活が少しでも楽に、楽しくあればと願う1人の女子大生の記録。