田舎のおばちゃんの『おにぎりと豚汁』~笑顔を生む炊き出しの知恵~(朝原令)

私は母と祖母が作るごはんが大好きだ。幼い頃、口いっぱいに頬張って食べた思い出を今でも鮮明に覚えているほど。そんな世界一大好きな2人のごはんを食べて育った私は22歳になり、ふとこんなことが頭に思い浮かんだ。「もし、大きな災害が起きて当たり前の食事ができなくなったら、どんな気持ちになるんやろ」。そこで、私は阪神・淡路大震災を実際に経験し、炊き出しを行っていたという女性農家の西馬きむ子さんのもとを訪ねた。

取材は西馬さんが開いている、「有機農業体験型宿泊施設グランメール」をお借りして実施。
ちょっぴり緊張しながら、いざ。
「食べる=遊ぶ ~子供同士の食育教室~」
私の食への愛の原点と言えば、幼い頃から食べてきた母と祖母の料理だ。では、西馬さんはどうだろう?まずは食に関する思い出を聞いてみた。「子どもの頃は春になって野イチゴができたらみんなで取って食べたりな。ザリガニ釣りして、みんなで茹でて、尾っぽのとこだけ食べるねん」。他にも、ハスの実やヒシの実、ヤドリギなどなど。西馬さんの口からは、私達にとって馴染みの少ない食べ物の話が溢れ出てきた。一体どうやって、これらの動植物を食べられると学んだのか。それは、西馬さんが共に過ごした近所のお兄ちゃん、お姉ちゃんからの教育によるものだった。
西馬さんの幼少期は戦後間もない頃で、「とにかく食べるもんを調達するんは子供の仕事」だったそうだ。「スーパーで買って家に持って帰るんだろう」と想像していた私は、西馬さんが話す数えきれないほどのエピソードに驚いた。なぜなら、肉以外の食料全てを近くの森や川で収穫すると聞いたからだ。「どっかの広場でばーっと集まって、大きい子が小っちゃい子の面倒見すんねんな。遊びながら、お兄ちゃんに教えてもらいながら、魚取ったり」。なるほど、自然の中で遊びながら生きていく術を学ぶのか。しかし、いくら子供でも毎日食料調達をすることは正直、面倒くさいのではないかと私は思った。が、西馬さんは違った。「楽しい楽しい。遊びが食べるに繋がる生活や」と、前向きな答えが返ってきた。そんな楽しい『遊び』の中でも、意外な大失敗があったそうだ。近所のお兄ちゃんが畑を指して自慢気に「あのな、この下に芋が入っとんねん」と言うので、皆で張り切って掘ったところ、「あらへん、あらへん!」と大騒ぎ。なんとその時は植えたての6月で、実が全く成っていなかったそう。「失敗から学ぶとはこういうことか」と実感できるエピソードだった。
「昔の子は何でも体験で、自分の体験で生きる力をつけよってんね。五感を使って、自分の身体を使ってものを覚える」。そんな西馬さんの幼少期は、田植えや稲刈りの時期、3~4日休校になることが当たり前だった。この事実にも驚きだが、それ以上に驚いたのが、好奇心旺盛な西馬さんの行動力だ。「近所手伝いに行きよってん。おばちゃん手伝ったろかーって。薬屋とか眼鏡屋とか酒屋とか宿屋とかいうて、ずーっとあそこに筋があったから。私なんて親の世話ならんでも、家に帰って風呂入らんでも入って帰れー言うて、ご飯も食べて帰れー言うて」。西馬さんは私とは全然違う子ども時代の思い出話をたくさん聞かせてくれる。でも、今の西馬さんを象徴する肝心の農業とは無縁の生活ではないのかと思ったが、そこに関する思い出もあった。「私ちっちゃいときからな、土触るの好きやってん。近所の土に野菜作らんと、いっぱい花植えた」。そこから自然と『ものを育てること』に対する愛が深まったそうだ。

グランメールの敷地内に成るブルーベリーを摘む西馬さん。
私に食べさせてくれました、甘酸っぱくておいしかったです。
さらに、嫁ぎ先のお父さんは「百姓の神様」と呼ばれるほどの農家の達人で、とにかく土を大事にしていた。「農作物を育てる水や肥料の方が断然大切なのでは?」と疑問に思った私だったが、西馬さんの話を聞き納得した。「化学肥料ぱぱぱっとふって、すぐ植えたらすぐ生えてくるけど、やっぱり化学肥料は土を荒らすねん」。一方、人間の食べかすや枯れ木が入った土を、微生物が分解して作られた田んぼ、つまり「自然の力」でできた土は水はけもよく、良い野菜が育つのだという。「私ら長靴に泥が付いて、それを池で洗いよったら怒られよった。土を逃がすということはお金を捨てるようなもんやって」。それほど土を大切にするお父さんの気持ちが、農家でない私にもよく理解できた。
こうして、西馬さんは、「自然と」有機栽培の道に進むことになり、農作物を商品としてではなく、大切な「食料」として扱える、そんな農家の女性グループ『ヘルシーママSUN』を立ち上げたのだ。
「必ずしも可哀そうではない?阪神淡路大震災の被害者」
阪神・淡路大震災が発生した1995年。その約4年前に『ヘルシーママSUN』が結成された。その当時、アトピーやアレルギーを持つ子どもが多かったそうだ。そんなアレルギーを持つ子の親から、百貨店である大丸に「農薬を使っていない作物を販売してほしい」という要望が多数寄せられていた。そこから有機栽培を行っていた西馬さんにも声がかかり、心斎橋店の販売から始まって、梅田、神戸へと需要が広まっていった。そのうち西馬さんだけでは対応できなくなり、有機栽培農家の友達に声をかけてグループを作ったそうだ。「ただ、作るのは男の人が一生懸命するけど、野菜や米ってやっぱり食べるもんや。商品としてしか語られないのは違うなと思ったんよ。やっぱり食べるもんはお母さんが作るもんやから、女の人同士やったら商品ではなく食料として話ができる。食べ方とかね。だから宣伝や町の人との交流は女性でしようと言うて『ヘルシーママSUN』をつくった」。これが『ヘルシーママSUN』結成の瞬間である。「有機栽培を促進するためにグループを作った」と考えていた私は、意外なきっかけに驚いた。
こうして、農家の女性を中心に、町の人との交流会や勉強会を実行していた中、阪神・淡路大震災が起こった。当時の垂水は、「ガスも食べるもんもあらへんし、火もあらへんし水も出えへん」。そんな状況だった。私が西馬さんの立場にいたら、「助けたい」という気持ちがあっても実際に行動を起こすことはできなかっただろう。しかし、西馬さんは違った。「どないして助けたらええかなっと思って。とにかく水がない」。そう考えた西馬さんが用意したのは、出荷する白米が入っていた段ボール。「段ボールに何を詰め込むのか」と不思議に思ったが、その中に二重にしたごみ袋を入れ、パンパンに水を注ぎこんだのだという。「べちゃーってこぼれてしまいませんか」と言うと、西馬さんは「あれようけ入るもん。口くくってるし」と笑った。


他にも、「伊川谷に、広―い私らが調理実習する場所があんねん。そこでおにぎりをずーっと、もう震災の晩から。神戸農業改良普及センターの人から『西馬さん!ママさん手伝いにおにぎり来て!』言われて。私ら一番におにぎりしに行った」。作ったおにぎりの配送は他の人に任せ、一心におにぎりを握り続けた西馬さん。おにぎりを食べている被災者の顔を見ることはできないが、「とにかく助けたい」という西馬さんの強い思いが、こうした素早い行動に繋がっていたのだろう。西馬さんの大胆な性格が、多くの被災者を救ってきたのだなと実感した。
その後、ヘルシーママSUNも現地への炊き出しに呼ばれた。私が炊き出しと聞いて想像するのは、冷たいおにぎりとみそ汁。しかし、被災地でよく提供されていたのは、具沢山の豚汁だった。「食材が不足している中で、豚汁が食べられたら嬉しいだろうな」と想像していた私だが、西馬さんの言葉に衝撃を受けた。「豚汁ばっかり飽きた言われてな」。全員が努力と我慢をしていた中で、わがままを言う被災者がいたというというのは、正直信じられなかった。報道で聞く「可哀そうな被災者」のイメージが覆された瞬間でもあった。西馬さんも言う。「あの時分ね、私人間て悲しいなって思ったんやけど、ものすごい被災者っていうのを盾にわがまま言うねん」。それでも、お腹を空かせた被災者のため、新メニューを提供したのが西馬さんだ。「しゃあない、一回中華スープみたいなんしよう言うてね。ほんで野菜いっぱい入れて」。いつでも、どこでも、誰にでも優しく、人のために動ける西馬さんに私は感銘を受けた。避難所でも、他の人に遠慮して食事を摂らずにいた先生たちのため、別で鍋を用意して温かいごはんを振舞ってあげていたそう。家の周りの畑でキャベツが盗まれても、家から自転車が盗まれても、怯むことなく西馬さんは軽トラで被災地を駆け回った。この「助けたい」精神と愛情のこもった「美味しいごはん」によって、数えきれないほど多くの被災者が助けられたのだろう。
もちろん、その思いは被災者にも伝わっていたようだ。震災から2か月が経った3月のある日、赤ちゃんを連れた若い女性が西馬さんのもとを訪れた。この女性は、震災当時、赤ちゃんを安心して寝かせることができるようにと、西馬さんが家に招き入れた方だった。「私炊きました!お礼です」といって女性が渡したのは、旬のいかなごのくぎ煮。「あんた子供おって大変やのに、そんなええのに言うてね」と懐かしむ西馬さんを見て、「いかなごに込められた特別な想い」が私にも伝わってきたのだった。
「田舎のおばちゃん増産計画」
こうして、阪神・淡路大震災の被災地で、たくさんの人に美味しいご飯を提供し、幸せを届けてきた西馬さん。この経験を活かし、子供を含む町の住民を30人ほど集め、「豚汁の炊き出し練習会」を開催した。最初に飛び込んできた質問に、西馬さんは驚いたと言う。それは、「なんでこんなようけ具入れるんですか?」だった。「震災で炊き出し行ったらおかず3品出るか?って。普通1つでしょ。おにぎりに豚汁。豚汁に野菜も肉もみんな入れて、おかずとお汁を兼ねて食べささんと、薄い薄いシャバシャバの豚汁したってあかんって。家でやったらそれでいいけど、やっぱり震災の時の炊き出しいうたら、おかずもお汁も兼ねるもんを作らなあかんねん」。この答えは、震災を経験していない住民にとって、新鮮なものだったに違いない。100人分の豚汁を作るにはどれだけの水や具材がいるのか、鍋やトラックはどこから用意するのか。それを把握しているのは、道具と知恵を豊富に持つ田舎の女性農家さんであるからこそだと実感した。
この炊き出し練習会でさらに大変だったのは、プロパンガスの使い方だ。プロパンガスと聞いて、私はいつも使っているガスと同じなのか、そうでないのかでさえ分からなかった。西馬さんによると、プロパンガスが滞留して火事になるのを防ぐために、先にチャッカマンの火をつけてからガスの元栓を捻るべきなのだそうだ。「田舎のおばちゃんは皆知ってる。でも知らん人もおるやろ。そういうとこ普段から練習してちゃんとしてもらわんと、炊き出しに行ったのに救急車呼ばなあかんようなる」。確かに、炊き出しで助けに行ったのに、怪我をしてしまっては意味がない。これを聞くまで、プロパンガスの使い方を全く知らなかった私は、緊急事態に備え、普段から練習しておくことが何よりも大切なのだと感じた。西馬さんも、定期的な研修が必要だと感じているようだった。
この炊き出し練習会を終えて、西馬さんは「これからの時代こそ行政が女性グループ、女性を育てておくいうのが1番」と強く思ったそうだ。「田舎のグループいうたらみな軽トラや大きな鍋とか、道具を持ってる。そやから災害のときにもね、炊き出しの道具がある。作る知恵がある。運ぶトラックがある。置く場所がある」。確かに、会社勤めの男性に比べ、農家を営む女性はすぐに動き出せる体制が整っているようだ。私も「田舎のおばちゃん増産しておくべきだ。」という西馬さんの意見に賛成だ。しかし、これからの時代こそ私達若者の力が必要となってくるのではないだろうか。震災を経験していない立場でも、「美味しいご飯を届けたい」「困っている人を助けたい」と思う私のような若者はたくさんいるはずだ。この想いを西馬さんに伝えると、「そりゃ若者が動いてくれるんが一番いい。危機感持ってな。ところが、五感を使って、体験をしてものを知ってる人やないと、いざというときに動かれへんと思うんよ」。私は何も言い返すことはできなかった。ただ美味しいごはんを届けたいという気持ちだけでは、実際の行動に移すことはできないのだ。
だからこそ、普段からの練習が糧となるが、気軽に参加できる炊き出し練習会のようなイベントはなかなか存在しない。私たち若者が声を上げることに加え、震災30年のこの年を機に、兵庫県のみならず、日本中で災害への備えについて知り、学ぶ機会が増えたらいいなと思う。最後に西馬さんが私に伝えた。「私が炊き出しや地震にあってしたときに一番感じたこと、今も思うこと。『私らみたいなおばちゃんがどんだけ育っとるか』や」。そうか、私も田舎のおばちゃんを目指せばいいのか。もちろん、すぐになれるものではない。少しずつ、少しずつ、五感を使って学んでいきたい。

おわりに
私が祖母と母の手料理を愛しすぎているあまり、被災地でのごはんにまつわるインタビューを行ったのだが、そこで聞けたのは単に「食べ物」に関する物語だけではなかった。現場でそのごはんを受け取った被災者、ごはんを提供した人、食材を調達した人、野菜を育てている人、そして農家から食材を買い取っている会社。1つの料理にたどり着くまでには、数えきれないほど多くの人々が関係している。そして、それぞれの行動には、幼い頃から培われた知恵や思い出が活かされている。私もいつか、祖母と母の料理への愛情が誰かの役に立つ日が来るのかと思うと、楽しみで仕方がない。


