まきえちゃんと私 (原 郁海)

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【当時のまきえちゃんの写真】



インタビューというよりおばあちゃんと孫の対談という感じで全く緊張感は漂っていなかった。
おばあちゃんに私が書いた記事を見せると、

「今まで震災の話はしなかったね」

といって私にゆっくりと語り始める。
今年75歳になるおばあちゃんは、忘れてしまったことも多かっただろうが、孫の私に一生懸命覚えている限りを語ってくれた。

私のおばあちゃんである「まきえちゃん」は、25年前に起きた阪神・淡路大震災の時は被害が大きかった須磨区と長田区の間に住んでいたが、自宅での被害はとても少なかった。なぜなら防災のための都市計画が終わり、自宅を新しく作り直していた。

それが良かったのだ。
そのおかげで避難所生活を送ることなく、仕事が続けられた。
クリーニング取次店でのお仕事は、いつもの何倍も忙しかったそうだ。
被災者の方の家の下敷きになったドロドロの服、寒さを凌ぐための毛布など沢山の洗濯物の依頼がきた。水は四ヶ月もの間絶たれていたのだった。


祖母の家で飼っている私のセキセイインコのぽっぽちゃんと、いとこのセキセイインコのそうちゃんが、のんきにピヨヨヨと楽しそうに歌っている。


祖母は私にとても多くのことを語ってくれたので、話の要点を箇条書きでまとめる。


「水の不足」

顔を洗うのが精一杯だった。トイレも流せなかった。
トイレを流すために妙法寺川からバケツで水を汲み上げるバケツリレーが行われていた。
冬だったため毎日はお風呂に入らなかった。そもそも入れもしなかったのだが。自衛隊が作った風呂に行き、高倉台でのお風呂ボランティアにお邪魔し、親戚の家へお風呂に入りにいくため電車に乗った。

昔働いていた職場の社長宅が近所にあり、心配で様子を見に行くと赤い炎で包まれている。水がでないから消火できない。石を投げるしかなかった。あちこちに火が燃え移った。何もできないまま、燃えるがままに焼け落ちた。

何日も火がついたままで、空は煙っており、黄色い雲が浮ぶ。

「今は亡きおじいちゃんの話」

おじいちゃんは、5時30分に出張のため早めに出勤していた。
地下鉄に乗っての移動であったため、おばあちゃんはおじいちゃんが閉じ込められているのではと心配していた。
新神戸駅のエスカレーターを上っている時、揺れが起こる。
エスカレーターが止まる。帰る交通手段は歩きのみ。
9時に自宅へ帰ってきたのだった。ヨレヨレのふらふらで。
数日間会社は休みだった。しかし、数日後は大阪の職場まで船で通ったそうだ。

故人を思ってか、当時を思い出してなのか、目線はどこか遠くを見ていた。

何度も「ちょっと待ってね、うーん」と目をぎゅっとつぶながら、必死に思い出そうとしてくれて、思い出して私に話す時には、おばあちゃんの大きな瞳は、 鏡のように私の姿をうつしていた。

「何十年も復興できないのではないか、神戸は立ち直れないのではないかと思った」

直下型地震でものすごい被害があったが、不幸中の幸い。
当時はバブル経済期でお金もあったし、景気 が良かった。
しかも神戸市は日本の真ん中の方に位置していたから、比較的他県からのボランティアの方も来やすい。
いい時期に地震が起きたのだと考えられた。

実際、ものすごいスピードで復興 が進み10年も経てば、綺麗になっていった。立ち直るぞという気持ちが大きかったのではないか。生きようとする力が強かったのではないか。と、おばあちゃんは私に語る。


「まきえちゃん、今日はありがとう」というと
「お役に立てたかしら」と笑顔で 答えてくれて
そそくさと晩ご飯 を作りに台所へ向かってしまった。

おばあちゃんの目の前でだまってパソコンを打ちこの記事を書いていたのだが私を気遣って紅茶を入れてくれた。

ストレートティーだったが、少し甘く感じた。



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